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東京高等裁判所 昭和39年(ネ)3014号 判決 1970年11月27日

控訴人(附帯被控訴人) 武見太郎

被控訴人(附帯控訴人) 桐野一文

主文

一、原判決中控訴人(附帯被控訴人、以下単に控訴人という。)敗訴の部分を取消す。

二、被控訴人(附帯控訴人、以下単に被控訴人という。)の請求を棄却する。

三、被控訴人の附帯控訴を棄却する。

四、訴訟費用は第一、二審を通じ全部被控訴人の負担とする。

事実

控訴人訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決および附帯控訴として、「原判決中被控訴人敗訴の部分を取消す。控訴人は被控訴人に対し、別紙<省略>謝罪記事を本文は明朝九ポイント、その他の部分は明朝五号活字をもつて、東京都内で発行される『日医ニユース』第一面に、および東京都内で発行される毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞(以上各地方版を含む。)の各新聞紙上に各一回掲載し、かつ金一〇〇万円およびこれに対する本附帯控訴状到達の日の翌日から右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」

との判決および金員支払を求める部分につき仮執行の宣言を求めた。

当時者双方の主張ならびに証拠の関係は、左に付加するほかは、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

(控訴人の主張)

控訴人の本件記事の掲載行為が原判決認定の如く仮に不法行為に値いし、かつ従前控訴人が主張した違法性阻却事由が存在しないとしても、本件記事の掲載は、被控訴人らの反日医的行動(原判決事実摘示、控訴人の抗弁一の(二))をもつてする、日医の医療問題に関する四項目実現闘争および会員の団結強化に向けられた急迫不正の侵害行為から、会員に対する日医の統制権および秩序維持権を防衛するためやむを得ざるに出た正当防衛行為であるから、民法第七二〇条により違法性が阻却せられる。従つてこの点からいつて、本件記事掲載行為については結局控訴人に不法行為上の責任はないことになる。

(被控訴人の主張)

一、原判決は、毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞への謝罪広告掲載の点につき被控訴人の請求を棄却し、また、「日医ニユース」への掲載記事は取消記事をもつて十分とし、謝罪広告掲載の請求を排斥している。しかしながら、被控訴人は、控訴人の本件記事掲載により、社会的名誉のほか、名誉感情、名誉心を侵害されたものであるから、「日医ニユース」への取消記事掲載をもつては、未だ救済として不十分である。

二、被控訴人は、控訴人の本件記事掲載により名誉を毀損され、精神上の苦痛を蒙つたので、あらたにその慰藉料として控訴人に対し金一〇〇万円の支払を請求する。

よつて附帯控訴の趣旨記載のとおりの判決を求める。

(証拠関係)<省略>

理由

一、被控訴人が昭和六年東京大学医学部医学科を卒業し、昭和一六年東京大学から医学博士の学位を授与され、昭和一八年八月から東京都豊島区池袋において医業を開業して現在にいたり、その間東京都社会保険診療報酬支払基金審査員、東京都結核予防法審議会委員、社団法人東京都豊島区医師会会長、東京都医師会理事および東京都医師会代議員等の地位についた者であること、日本医師会(以下単に「日医」という。)は、「医道の昂揚、医学、医術の発達普及と公衆衛生の向上とをはかり、もつて社会福祉を増進すること」を目的として昭和二二年設立された、「全国を区域とし、社団法人である都道府県医師会の会員をもつて構成する」社団法人で、会員約七万二、〇〇〇名を擁すること、日医は従来「日医特報」と称する新聞を発刊していたが、昭和三六年九月制限診療の撤廃、一点単価の引上げ、事務繁雑化の是正および甲乙二表の一本化と地域差の撤廃という四項目の要求に関し政府とある種の合意に到達したのを機会に、右日医特報を廃刊し、あらたに「日医ニユース」を毎月五日および二〇日の二回刊行することになり、同月二〇日日医ニユース第一号を発刊し、全会員に郵送頒布したこと、日医ニユースの発行部数は、全会員に頒布されるほか関係各方面にも配布されるので、少なくとも七万数千部に及ぶものであること、控訴人は日医の会長であるが、昭和三六年九月二〇日付日医ニユース第一号第一面に、冒頭の発刊の辞につぐ三段抜きトツプ記事として、「終戦から懇談会発足まで日本医師会長武見太郎」と題し、ついでその第五、六段に二段抜きで「御用第二医師会設立の準備」という表題で、原判決添付別紙記載の記事(一)(以下単に「記事(一)」という。)を掲載したこと、記事(一)中の「別紙」とある部分にあたる記事は、同号第四面トツプ三段抜きで、「医師の良識はこれを粉砕」「平賀日病参与ら御用医師会を画策」と題して掲載されたものであつて、その内容は原判決添付別紙記載の記事(二)(以下単に「記事(二)」という。)のとおりであることは、いずれも当事者間に争がない。

二、原審ならびに当審における控訴人本人尋問の結果によれば、記事(一)は、控訴人自らの執筆にかかるものであり、記事(二)は、控訴人が日医ニユース編集委員会に委嘱して作成、掲載せしめたもので、記事(一)を執筆した当時記事(二)は未だ作成されていなかつたが、控訴人は作成さるべき記事(二)の内容をあらかじめ事前に承知した上、これを記事(一)の内容として引用したものであることが認められ、右事実よりすれば、控訴人は記事(一)および(二)(以下両者を併せて「本件記事」という。)について責任を有するものというべきである。

三、よつて、本件記事が被控訴人の名誉を毀損するものであるかどうかにつき按ずるに、本件記事は「御用第二医師会設立の準備」との見出しを付け、「第二日医設立による医界の分断工作は、八月二十七日学士会館における古井前厚相、日病平賀参与、健保連高橋専務理事、都医代議員桐野一文、岡本丈氏等を中心とした日医会費供託等の動きとなり、更に学習院講堂における古井、桐野、永見諸氏の講演会となつたのである。今日も分断工作は終つていないことを忘れてはならない。」と断じ、続けて、「両会合に於て主催者が満場の反撃をうけたことは別記の通りである。」と記載し、別記において、「八月某日東大赤門脇の学士会館での会合」および「九月八日東京都目白の学習院講堂で豊島区の前医師会長桐野が代表で招集した会合」を、「統一行動に反対した異端分子やこれに非協力だつた分子の医界かく乱の動き」として報じ、右学習院講堂の会合に関する遠藤日医常任理事の語つた、「歴代の厚生大臣中仕事をしたのは古井さんだという主宰者の言葉は、主宰者のよこしまな意図を場内に徹底したことになつたものではないか。」という感想をそのまま引用して記載している点等において、被控訴人の名を特定し、その人格に関するマイナス面を指摘しかつこれに対する判断を加えたものとして、被控訴人の社会的声価を害し、名誉を毀損したものということができる。

四、そこでさらにすすんで、本件記事による名誉毀損の違法性の有無につき按ずるに、けだし、人が自己の正当な利益を擁護するためやむをえず他人の名誉・信用等を毀損するが如き言動をなすことがあつても、かかる行為はその他人が行つた言動に対比して、その方法、内容において社会的に認容される限度を超えない限り違法性を欠くものと解すべきところ、この観点よりすれば、本件記事は未だ違法性なく、従つて控訴人は不法行為の責任を負わないものと解すべきである。以下にその理由を述べる。

まず次の各事実は、当事者間に争がない。

(一)  控訴人を会長とする日医および河村弘を会長とする日本歯科医師会(以下単に「日歯」という。)は、政府の国民皆保険政策の実施に当り、医師の本来的な要求であり、かつ医療の根本原則である、医学・医術の進歩向上による国民福祉への寄与および医師と患者との人間関係における自由の確保という基本的な意見に基づき、昭和三五年八月一八日以来政府に対して、(イ)制限診療の撤廃、(ロ)一点単価の引上げ、(ハ)事務繁雑化是正、(ニ)甲乙二表の一本化と地域差の撤廃という四項目を要望してきた。すなわち、

(1)  昭和三五年八月一八日、日医は当時の中山厚生大臣に対し、前記医療問題に関する四項目の実現を要望した。

(2)  同年一〇月一三日、第三五回日医臨時代議員会は、中山厚生大臣に要望した前記四項目を絶対に支持し、この実現貫徹のため、全医界を挙げて邁進することを期するとともに、四項目が早急に実現しない場合には、昭和三六年四月一日実施を目途とする政府の国民皆保険政策に協力しない旨を決議した。その後昭和三五年一二月八日古井喜美が厚生大臣に就任した。

(3)  昭和三六年一月九日、日医理事会は、四項目に関する日医の要望が容れられず、同月六日厚生省が発表した厚生省案(単価による引上げでなく、点数改正によつて診療費を改定する。引上げは一〇パーセントとする。病院は一四パーセント、診療所は六パーセントという格差を設ける。)が一部たりとも採用されるなら、皆保険非協力態勢に入ることを決定した。一方全国健保大会は、昭和三五年一一月九日医療費引上げ反対を表明した。

(4)  昭和三六年一月二一日、日医の理事会は、日医に医療危機突破闘争本部を設置することを決定するとともに、日医会長を闘争本部長に選任し、日医の全組織を挙げて闘争態勢に移行した。

(5)  同日開催の都道府県医師会長協議会は、日医闘争本部の闘争方針を絶対支持することを確認し、全国都道府県医師会も同日から闘争を開始する旨申合わせたので、全国都道府県医師会も同様闘争態勢に突入した。

(6)  同年一月二五日、日医闘争本部は、都道府県医師会闘争本部宛て、「早急に実施する地方医師会闘争運動について」と題する指令を通達した。

(7)  同年二月八日、日医闘争本部は、都道府県医師会宛て全国日曜日一斉休診、定期検診、予防注射および予防接種の協力拒否ならびに健康保険医および国民健康保険医の総辞退届のとりまとめを指示した。

(8)  同日、日医闘争本部は、「日医特報」を発行し、各都道府県医師会闘争本部宛て、各都道府県医師会会員数の一割増の部数を送付し、都道府県医師会から郡、市、区医師会を通じて全国の各会員に配付し、四項目実現闘争の意義、運動方針および具体的運動方法につき、会員との一層の意思疎通をはかり、その後も引続き必要に応じて発行し、同様に配付した。

(9)  同年二月一九日、日医闘争本部の指示に基づき、医師の全国一斉休診を実施した。

(10)  同年二月二一日、日医闘争本部は、都道府県医師会闘争本部宛て、同年三月五日全国一斉休診の実施を通達した。この頃日医の医療問題に関する闘争運動は、社会の注目を惹き、この問題に関する世論を極度に喚起したが、古井厚生大臣は、これに対し適切な措置をとらなかつたので、闘争は日増しに激化する状勢に立ち到つた。

(11)  同年二月二八日、日医、日歯両会長は、同年三月一日を期して行うことになつていた保険医総辞退の決行を一時中止し、次回同年三月三日行われる自民党三役との会談の結果を待つて実行に移す旨共同声明を発表した。

(12)  同年三月三日、日医、日歯両会長は、共同で自民党三役との今回の話合により、国民医療の向上が具体的に進展するものと確信する旨を発表した。

(13)  同年三月六日、日医の闘争本部が「社会医療改善対策本部」と改称された。

(14)  同年三月七日日医代議員会は、日医が先に中山厚生大臣に提出した医療問題に関する四項目実現の要望を貫徹すべき旨決議した。

(15)  同年四月六日、日医は、各都道府県医師会長に宛て、中央社会保険医療協議会の改組に関する日医、日歯の意見およびこれに関する共同声明について通達した。

(16)  同年五月一三日、日医、日歯は、日比谷公園野外音楽堂において、公約促進全国医師、歯科医師大会を開催し、(イ)厚生省の原案に係る「医療協議会法改正案」絶対反対の決議をするとともに、(ロ)政府は、保険者、官僚の独裁によつて医師の天職が汚毒されている現行健康保険法を抜本的に改正して、全医師、全歯科医師が近代医学による国民文化の昂揚と生命尊重の使命に徹することができるよう処置をとるべきである旨の宣言を行なつた。その間同年三月頃から、健保連その他の団体の反対運動が行われた。

(17)  同年六月六日、日医、日歯および日本薬剤師協会(以下「日薬」という。)は、中央社会保険医療協議会法案の取扱についての大平官房長官の妥協案を支持する旨および厚生大臣がこれを拒否し、右法案を不成立に至らしめた場合に生ずべき混乱に対する責任は政府が負うべきである旨の声明を発表した。

(18)  同年六月九日、日医、日歯、日薬は、古井厚生大臣の責任を追求する旨の声明を発表した。

(19)  同年六月二〇日、日医、日歯、日薬は、同年七月一日から診療報酬の引上げ実施を要求する旨の声明を発表した。

(20)  同年七月八日、古井厚生大臣は点数改正を告示した。

(21)  同年七月一一日、日医の理事会は、全国医師会員の意図を受けて、実力行使に関する一切の権限を日医会長に一任する旨の決議をした。

(22)  同日、日医、日歯、日薬の三会においても、それぞれ同趣旨の決議をした。

(23)  同年七月一七日、古井喜美は厚生大臣を辞任し、翌一八日、灘尾弘吉が厚生大臣に就任した。

(24)  同年七月一九日、日医、日歯、日薬の三会は、いずれも同年八月一日を期して社会保険に関する一切の契約を解除することを決定した旨の共同声明を発表した。保険者団体等はこれに反対した。

(25)  同年七月三〇日、日医、日歯は、自民党田中政務調査会長の第一次申入れを拒否する旨の共同声明を発表した。

(26)  同年八月一五日、厚生大臣主催の懇談会(医療担当者側一〇名、保険者、被保険者側一〇名とし、大臣を長とした。)が発足し、日医側の委員は、病院委員会委員長佐々貫之、東大医学部長吉田富三、日医常任理事丸茂重貞、調査特別委員加賀呉一、同川合弘一の五名を推せん決定した。

(27)  同年九月五日第八次懇談会において、

(イ) 医療内容の改善については、(a)医学、薬学の進歩を速かに医療保険に取入れ、国民医療水準の向上を期する。(b)医療担当規則、治療指針、使用基準等の改善として、新薬、新検査法、新療法を速かに採用する。(c)療養担当規則等において誤解を招き易いもの、時勢に合わないもの等を改善する。(d)国民皆保険の現在、医学の研究および教育の特殊性に対する配慮および医療担当者の技術差について今後十分検討する。

(ロ) 医療保険制度の改革については、(a)国の財政負担の強化および給付の改善を図る。(b)医療保険の運営における事務の能率化および簡素化(特に診療報酬請求事務の簡素化)を図る。(c)関係行政機構、関係諮問機関を改善する。

(ハ) 診療報酬については、(a)医学、医術の進歩に応じ、自由主義経済体制下における適正な診療報酬の実現を図る。(b)診療報酬の地域差の撤廃、甲乙二表の一本化を積極的に取上げ、検討を進める。

(ニ) その他として、(a)医療制度の改善を検討する。(b)僻地における医療対策を積極的に改善する。(c)医療技術の向上と研究につき、政府は必要な援助と便宜を供与する。

等の了解事項を決定し、今後関係者が相互の立場を理解しつつ協力し、問題を解決してゆくことになつた。

(28)  前記了解事項に基づく施策は、次のように実現されていつた。

(イ) 同年一〇月二八日、灘尾厚生大臣は、制限診療緩和に関する告示を発した。

(ロ) 同年一一月一六日、日医、日歯、日薬の要望を採用した中央社会保険医療協議会法が公布された。

(ハ) 同年一一月一八日、灘尾厚生大臣は、緊急是正に関する告示を発した。

(二)  他方被控訴人は、昭和三六年六月二八日付をもつて、日本病院協会参与平賀稔および健康保険組合連合会常務理事高橋敏雄を招き、国民医療問題懇談会を昭和三六年七月一六日板橋区医師会館において開催する旨の招請状を日医会員多数の者に対し発送した。

古井喜美は、昭和三六年七月一七日厚生大臣を辞任したが、被控訴人は、同年八月二七日本郷の学士会館において、古井前厚生大臣および日本病院協会参与平賀稔その他数名を招き、「古井前厚生大臣に医療問題を聞く会」を開催した。

被控訴人は、昭和三六年九月八日、学習院講堂において、古井前厚生大臣の「医療問題に関する講演会」を開催した。

以上争なき事実と、各成立に争のない甲第一号証、同第二ないし第四号証の各一、二、同第五号証、同第六号証の一ないし三、同第九号証の一、二、同第一〇号証、同第一一号証の一、二、同第一三号証の一ないし三、同第一五号証の一、二、乙第一ないし第六号証、同第七号証の一、二、同第八ないし第一〇号証、同第一二、一三号証、同第一八号証の一、二、同第一九号証、同第二一号証、同第二二、二三号証の各一、二、同第二七ないし第二九号証、同第三二号証、活字以外の書込部分を除くその余の部分について成立に争のない同第一一号証の一、二、原審証人川畑有美稲、同日高寿三郎、同平賀稔、同岡本丈、同嶋田宗之、原審ならびに当審証人遠藤朝英、同小倉時達、当審証人河嶋光の各証言、原審ならびに当審における被控訴人および控訴人の各本人尋問の結果および原審における検証の結果を総合すれば、次の事実を認めることができる。すなわち

控訴人は昭和三二年四月日医の会長に就任し、爾来引続きその地位にあること。日医の役員として、会長のほか、副会長、理事、監事、代議員があり、理事は会務を処理するが会長は日医を代表して会務を処理し、理事一五名のうち七名を常任理事とし、日医の会務の運営は、会長を含む常任理事会、会長、副会長を含む全理事会の決議によつて行われること。昭和三六年三月三日前記四項目の実現に関し、日医と日歯の両会長と、自民党三役との第八次会談が行われ、その結果同年七月一日から診療報酬の単価を、一円を相当上まわる額で引上げ、入院料、往診料、歯科補てんについてもすみやかに措置をとり、残余の問題は引続き検討する旨の公約が成立し、その結果日医、日歯の両会長は、前記(一)、(12)の発表をし、かつ闘争運動の進展に応じ、闘争態勢を監視態勢に移行する旨の共同声明を発表したこと、しかるに、同年六月二〇日、診療報酬の引上げを、点数単価の一律引上げのみによらず点数の合理化を併用して実現しようとする厚生省案が判明し、右案によれば、病院については一六パーセントの増分が認められるのに対し、一般診療所には六パーセントの増分しか認められないこととなるとして、日医は大いに反対したが、古井厚生大臣は医療協議会の答申を尊重し、同年七月八日右厚生省案にそつた点数改正の告示をしたので、医療問題は再び紛糾し、前記(一)(21)、(22)の決議がなされたこと。自民党田中政務調査会長は、事態を収拾するため同年七月下旬日医、日歯両会長と会談し、同年七月三一日灘尾厚生大臣、自民党三役、日医、日歯両会長の会談が行われ、その結果

(イ)  医療保険制度の抜本的改正

(ロ)  医学の研究および教育の向上と国民福祉の結合

(ハ)  医師と患者との人間関係に基づく自由の確保

(ニ)  自由経済社会における診療報酬制度の確立

という四原則の妥結に到達し、日医、日歯は、同年八月一日決行予定であつた保険医総辞退を中止するとともに、厚生大臣の設置する医療懇談会に診療担当者を参加せしめることとし、同年八月九日第三八回日医代議員会は、前記厚生大臣および自民党三役との間の合意を絶対多数で承認したので、日医は闘争態勢を解除したこと。しかるに、日医会員の中には、右のような抽象的な四原則の合意をもつて妥結したことに対し不満を持つ者が多く、日医会員の一人である被控訴人は「社会保険旬報」第六五三号(昭和三六年八月一一日発行)に、「懇談会の結果を見なければ断定は下せないが、こんどの四項目の妥結はいずれも十年一日の如く言つてきたものばかりで、三月三日の約束より漠然としている。医師会員は納得できないだろう。ともかくこの際総辞退すべきであつた。昭和二十六年以来何回も総辞退するといつておきながら、総辞退できなかつた。患者にまで『先生、私が思つた通り、やつぱり総辞退しませんでしたね。』と笑われている始末だ。もう武見内閣では総辞退は出来ない、外濠はうめられた感じだ。

懇談会は、医師、歯科医師、薬剤師十名、その他十名だそうだがその他十名の中に医系議員を二、三名入れて多数で押しきろうなどと考えているのでは失敗する。日医推せん五名の中に一名病院協会の代表を入れるくらいの度量が欲しいものだ。」

という感想を発表し、また同じく日医会員の一人である岡本丈も同号に、

「今度の自民党、政府との妥結内容をみて、医師は世論にまけたという印象が強い。それはまた武見さんの限界をはつきり示すものだ。極言すれば、医師大衆を自民党に売つたものとさえいえる。三月三日以来、われわれの闘争の相手は一厚生省だけでなく、自民党、政府であることが明白となつたはずである。にもかかわらず、今度もまた自民党幹部と医師会幹部との単なる取引きに終つたことは残念である。また医療懇談会が発足したら、それに対して医師会はあらゆる戦術を用いて要求をつきつけていかねばならない。それを日医執行部は、妥結が成立したとたんに闘争態勢を解けと指令しているのも納得できない。少なくとも八月下旬までは闘争態勢を持続すべきである。(後略)」

という感想を発表したこと。これより先、被控訴人は昭和三六年七月一六日板橋区医師会館において、診療報酬の値上問題に関し日医と対立する立場にあつた日本病院協会の参与平賀稔および診療報酬の値上げに反対していた健康保険組合連合会の常務理事高橋敏雄を招き、それぞれの立場から意見を聞く目的の会合を主催して開催し、四、五十名の出席者があつたこと、右会合は豊島区医師会長嶋田宗之の反対をおして開かれたものであつたこと、ついで同年八月二七日学士会館において塩月正雄が主催して古井前厚生大臣の話を聞き、意見を交換する半ば講演会、半ば座談会的な会合が開かれ、二、三十名の出席者があつたが、被控訴人は他に所用があつたため、その終り近くなつて出席したこと、右会合の席上日医の会長、執行部に対し、出席者のほとんどから、激しい批判、攻撃がなされ、「今の医師会はけしからんから、新しい医師会をつくろう。」という話が出、また、出席者の一人川畑有美稲から、「医師会員が最少限の発言権を得て会を民主化する手段として、会費を供託してはどうか。」という意見が発表され、「供託する署名を求めよう」という話も出たが、実行はされなかつたこと。右会合は、新しい医師会をつくること、会費の供託を決議すること等を目的として開かれたものではなく、たまたま一部の出席者から日医の執行部に対する批判と関連して座談的に右のような話が出たにすぎないものであり、被控訴人は前記のように会の終る直前になつて出席したものであるから右のような発言はしていないこと。被控訴人は同年九月八日学習院講堂において自ら主催して古井前厚相らを講師として招き、講演会を開催し、約一二〇名の出席者があつたこと。右会合において、被控訴人は開会の挨拶として、

「昨年八月一八日に日医が四項目の要望をしてから、ずつと戦いを続けているが、全国会員の骨折りにもかかわらず一向好転していない。七月八日の告示によつて点数の単価の値上げがあつたが、我々開業医には、僅かに六五銭位しか単価が上つていない。私どもは我が国の社会医療を抜本的に改善しなければならんと一〇年も前から叫び続けており、日本医師会においても医療制度特別調査委員会を作つてもう二年も抜本的にやろうというわけでやつているけれども、未だに緒論である。私どもが一番いま手取り早く望んで実現の可能性のあることは、経済問題である。この経済問題の解決がなくては、我々会員はどういう理論、高邁な理想でもついてゆけない。戦いを続けてゆく上には敵の実情を知らなければならないことは、大東亜戦争の教訓である。今年の一月の抗議大会、四月か五月の公約促進大会で抗議団長として古井さんに会つたとき、古井さんは、『医師会の先生方と十分にお話をしてみたい。そうすれば僕の気持も分つて貰えるだろうし、あんた方の要求も分るだろうと思うけれども、そういう機会が一度もないのはまことに残念である。』と言われた。古井さんは、歴代の厚生大臣の中では、カナマイシンの採用とか、今度の告示とか、我々の希望とは大分違つた形ではあつたが、なにかやつておられる。今までは大臣で、こういうふうにやつた人はない。それで古井さんが在職中にお考えになつた医療制度はどういうふうにあるべきかというようなこと、思うようにできないで困つたとかいうようなことについてお話を伺うことも、プラスになるのではないかという訳で、この講演会を催したわけである。さらに、新点数が告示になつたが、一度も説明会がないので、基金の寺田技官にお願いしてお話をしていただく。それから国際問題も非常に緊迫している状態であるので、外交問題の論説委員をしておられる那須先生をわずらわして、そういう面をお話していただこう。厚生省関係の論説委員をしておられる五島貞次先生も此処におつて、皆さんの御意見、御要望をお聞きになることだろうと思うから、前厚生大臣のお話しが終つたら、活発な質疑をやつていただきたい。」

と述べ、古井喜美は、講師として、自由主義社会における生活の格差の増大、社会保障、医療保障の現状、医療の現物給与方式と療養費払い方式への疑問、各種保険の不均衡とその統合問題、病院と開業医との間のあるべき関係、医療制度を予防の方角に方向転換する問題、医療費の値上問題、七月八日の点数改正の告示をするに至つた経緯の詳細等について述べ、ことに点数改正の告示をするに至つた理由につき中立的な聴衆に相当の感銘を与えたこと。右講演の終つた後、日医の常任理事遠藤朝英は、質問という名目で司会者の承認を得て、古井の講演した内容に関し日医の立場からかなり長い間批判的な意見を述べ、その区切り、区切りである程度の拍手あるいは「そう、そう」と叫ぶ声があつたこと。右会合は被控訴人が前記開会の挨拶で述べたような趣旨で開かれたものであり、第二医師会を設立する準備のためではなく、また、被控訴人が「満場の反撃」を受けたような事実もなかつたこと。控訴人は右学士会館および学習院講堂での会合の模様を両会合に出席した小倉時達、学習院の会合に出席した日医広報委員河嶋光、前記遠藤朝英等から直接または間接に聞き、日医の会員の団結をみだす分派行動であると判断し、日医としての統一、団結を保持するために会員に対し警告する趣旨で、やむなく本件記事を執筆したものであること。

以上のとおりの事実を認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の事実によれば、「御用第二医師会設立の準備」という標題の下に書かれた本件記事、なかんずく「第二日医設立による医界の分断工作は、八月二十七日学士会館における古井前厚相、日病平賀参与、健保連高橋専務理事、都医代議員桐野一文、岡本丈氏等を中心とした日医会費供託等の動きとなり、更に学習院講堂における古井、桐野、永見諸氏の講演会となつたのである」「両会合において主催者が満場の反撃をうけた」等の部分は不正確であり、十分な資料に基づくことなくかかる不正確独断的記事を掲載した控訴人の軽卒さは非難されなければならないが、控訴人としては分派行動と判断した被控訴人らの行動に対し、日医としての統一、団結を保持するために会員に対し警告する趣旨でやむなく日医会員を主たる読者とする「日医ニユース」に本件記事を執筆したものであり(本件記事は被控訴人に対する戒告等の処分の趣旨でなされたものではないから裁定委員会付議云々の点は問題にならない。)、一方被控訴人は、昭和三六年七月八日古井厚生大臣により点数改正の告示がなされた直後、診療報酬の値上げ等に関し日医とは対立していた日本病院協会参与の平賀稔、健康保険組合連合会常務理事高橋敏雄を招き、日医執行部の意向に反して敢て同月一六日の板橋区医師会館における会合を主催し、また、同月三一日前記四項目の原則の合意がなされ、同年八月一日保険医総辞退が回避されるや、同月一一日付の社会保険旬報に「外濠は埋められた」との感想を発表し、同月二八日日医執行部に対して批判的意見を有する者を主とした学士会館での会合に中心人物の一人として出席し、さらに、同年九月八日前記学習院講堂における古井前厚相に医療問題を聞く会を主催しているのであつて、被控訴人のこれらの行動は、第二医師会の設立を準備する目的でなされたものではないが、反執行部的なもので、日医会員および医療問題につき関心を有する世人に日医の統一についての疑惑を抱かせ、日医の団結をみだすおそれのあるものであつたと認められるのであつて、これらの点を考慮するときは、本件記事は、形式的には被控訴人の名誉を毀損するも、その方法、内容において未だ社会的に認容され得る限度を超えていないものということができ、したがつて違法性なきものと解するのを相当とする。一方被控訴人としては、本件記事の誤りを「日医ニユース」その他の誌上で明白にすれば足りたとすべきであろう。

五、以上の次第で、控訴人の控訴は理由があるから、原判決中控訴人敗訴の部分を取消し、被控訴人の謝罪広告を求める本訴請求を棄却し、被控訴人の附帯控訴は、慰謝料の支払を求める部分も含め、すべて理由がないからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 古山宏 川添万夫 右田堯雄)

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